昭和59年10月10日 月次祭



 こちらに出て参ります時に養素拝山と言う事を頂きました。私の栄四郎達がおります、あのう客間の方に掛かっております額が、それです養素拝山。そしてこちらへ出て参りましたら、ちょうど幹三郎のお話がもう終わろうとしておるところでございましたが、どういう話を致しましたかは分かりませんでしたけれど、最後の結びの言葉の中に、最近辛抱を遊びの心で頂いておりますと、はぁ素晴らしい言葉だなと思うて静観した事だけを聞きとめさせて頂いて、養素拝山とはこの事だなぁと思わせて頂きました。
 教祖様も一生が修行じゃと仰せられる。信心をすれば一生苦労が続くと言うのではありません。一生この世にある限りより力をよりお徳を頂いて、あの世へ持って行けれる様な力にも徳にもさせたいと言う、御神真意が教祖のお言葉の中に伺われます。一生が修行じゃと。修行を厭うては信心はなりません。上達いたしません。だからその修行が今日の幹三郎のお話じゃないですけれども、遊びの心で頂けると言う事は素晴らしい事、私が最近まぁ申します様に、とにかく嬉しいと言う心なんです。
 それは修行をさせて頂けば頂くほど、辛抱しなければならにような事の後に、必ず自分というものが大きくなっておる、なって行っておる自分に気が付くからですよ。ただ辛抱強くなっているだけじゃなくて、確かにおかげだというものが広がって行って居る事を感じます。私もこのう朔日のお月次祭にはとうとう御無礼を致しましたが、29日生の誕祭を頂いて30日の朝から、ちょうど昨日の夕方までまぁ夜昼まぁ本当に自分で感じて、眠った時間があるだろうかと思う位に、寝ては起寝ては起しなければならない様な身体の状態でございましたが。
 はぁ本当にま面倒くさい事だなぁ苦しい事だなぁと、言う様な事を思いませんでしたがね。本当にまぁ嬉しいという言葉でどうでしょうか、有り難いという言葉と嬉しいと言う心を一つにしたようなまぁ感じでございましたが、おかげを頂いて昨夜から、昨夜はもうグッスリ休ませて頂いて、今日も又いやぁもうとにかくなん日間もやすんでないような状態ですから、もう暇さえあれば眠っておると言う様に眠らせて頂きました。
 そうしてこう修行させて頂く教祖様が仰る一生が修行だと仰せられる修業とは、いよいよ力を下さろうとするいよいよお徳を広げて下さろうとする働き以外ないと、分かって来る時に段々辛抱を遊びの心で頂き止る事が出来る様になり、嬉しい心で受け受け止る事の出来る世界が確かにあるんです。あいよかけよでお道の信心では言葉を、あいよかけよで立ち行くと言うお言葉がございますが。あいよかけよと言う事はどう言う事の場合であっても、どう言う事柄とでもあいよかけよの出来る心の状態だと思うです。
 自分の都合のよか時だけ神様に働いてもらう、と言った様なものではなく、また自分の都合のよか時だけなんか御用をさしてもらう、というのがあやくでもってどんな場合であっても、神様と私共の関り合いというものがまぁ有り難い。という今辛抱しきれない様な事の中にあっても、その辛抱を遊びの心で受けられる、嬉しいと言う心で受けられる。それはいわゆる養素拝山である。
 信心の養う素はね山を拝むとこうある。山とは修行の事、修行を拝んで受けられる事によって、その人の信心の血肉と言うか、いよいよまぁ偉大な信心へとこう進んで行く事が出来る。もちろんおかげの世界がそれに伴って来る事でしょう。昨日車の中で神愛会であったが、もうあのう若先生の最後の話を聞かせて頂いたんですけれども、もう以前に合楽の信心は「桜切る馬鹿 梅切らぬ馬鹿」とという御理解を、なるほど聞かせて頂きよったらそんな御理解だったなぁと思うて。
 そしてなら合楽の信心を形成しておるというか、おかげをいうならば作り上げておるというか、そういう信心から生れておるんだと。今日は気分がいいですから久し振りでお広前の隅から隅まで、まぁ上にゃ行きませんけど下の方だけ一部屋一部屋回りました。別に私が回ると言う事が言うてあったから、さぁなら片付けとかんならん掃除しとかんならんと言う訳ではない。
 ただあのう行き当たりばったりずうっとこう見て回りましたが、どの部屋に参りましても、どの部屋に参りましても。もう例えば置物一つでも、これをあれと取り換えとくとよかね。ただ四季四季に変えられる軸とか額とかいうものは分ると致しましても、置物なんかでももうこれをここから動かさん方がいいんだと言う様に、きちっとこう決まった物がこりゃ私の感覚ですけれども、で見て回って素晴らしいなぁ。
 いうなら美的感覚で申しましょうか、本当にただ人間の知恵とか力だけで、集めたり力だけでこうしたあぁした言うのじゃなく、だからそこにどこにもこうそつがない。そういうならおかげと言うのは言わば「桜切る馬鹿 梅切らぬ馬鹿」とね、本当に華やかな桜の花が咲いておる様な感じの、合楽のおかげの世界であります。けれどもそれだけではありません。それにはもう必ずや「梅切らぬ馬鹿」と言う馬鹿にならずに、梅はもう出来るだけ、言うならば梅と言う事は信心辛抱と言われますが。
 信心辛抱はね、もう出来るだけさせて頂こう、出来るだけ自分というものを窮屈に切って行こう。幹三郎が申しております、いわゆるその辛抱に遊びの心が伴うて来た、素晴らしい事である、梅切る事が更に、梅は切る事によって翌年の花が沢山咲き実が沢山実ると言われる。桜は切るともう切ったところから枯れると言われるほどし、金光教の信心なんかそういう所がちょっとあるようですね。
 何かもいっしょにたくは敵だと、まぁ勿論贅沢は敵ですけれども、んなら合楽でなら例えばあのう、今日一部屋一部屋見て回ってから感じた事ですけでも、あんたこんな贅沢なもん持ってきてもらうなら困るがの。こげなもんな家にゃ置かれんと言うじゃなくて、もう持って来るならばどう言う素晴らしい物であろうが、調度品一つ、敷物一つにしろあぁ私はそれをこう受けていくのです。いわばきらんのです。そこにだから華やかな今日もここずうぅっと見て回りましたら。
 そこのお賽銭箱の後ろの衝立がえらいこうそそくっちゃりますもん。合楽にゃこげんたぁ似合わんぞっと、こりゃこの頃子供が破ったからよこから貼っちゃる。そんならもう早速こりゃもうあのう表具屋にやって換えとるけ、どこが破れておってももうそういうあの見苦しいものが在ってはいけない。そういう心掛けでおりますから、まぁ皆さんももう本当にあのう庭なんかでも、もう土庭でも暫くそこに佇まんで、とどまって鑑賞しなければおられないように手入れも行き届いとるし。
 神乍らに神様がつくられたお庭だから違うなぁと、そのお庭を今日は見て回りましてから、まぁ何時も見ておる事ですけれども、見飽きのしないにわだなぁっとまぁ思わせて頂きました。これは私がね桜を切る様な事をせずに。梅を切る事を惜しむ様な事をせずに、信心辛抱頂きぬかせて頂くと言う信心から、私はからの合楽理念でなからなければいけないと、最近は合楽理念の実験実証者が本当にあのう目立っていうか著しい勢いで、御理念が信者さんの上に浸透しておる事を。
 私は皆さんの会合を全部あれビデオやらテープに録ってあるので見たり聞かせたりさせて頂いておりますが。もう本当にまぁ教育というが教え育てると言う事はこんな事であろうか。私が過去に於いてまぁ言うならば教えて来た事が皆さん今血肉になって、めいめいの家庭でその術をあらわしておられる様子を、しかも合楽理念に基ずく御修行の模様を、一人一人聞かせて頂いて素晴らしい事だなぁ。
 本当にこの勢いで御理念が広がって参りましたら、いよいよ金光大神の世界が皆さんの上に広がって来る事であろうと言う風に、まぁ思わせて頂いておるのでございます。どうぞおかげを頂いてね、いわゆるその養素拝山の一つの構が出来るおかげをね。この難儀こそこの苦労こそ神愛の現れだあると同時に、これが自分の信心を肥すいわゆる基になるのだ、それには私共の前に立ち塞がる様にして、起こって来る例えば問題であっても問題は増々深刻に、または大きくなって参りましてもね。
 それをまぁ遊び心で受けられる様な、それを嬉しいと言う心で受けられるような稽古、それを私共は一生かけてそういう修行に取り組み、信心の世界におかげを頂いておらなければ味わえない、また頂けなかった力を又はお徳をつかさせて頂く事を楽しみに、またそういう手立てをいよいよ密にして、いよいよ稽古に励まして頂かなければならんと思います。今日は私が頂けます出がけに頂いて参ました養素拝山を、この事を皆さんに分かってもらおうと言う事でございましたが。
 それを具体的に私は感じましたのが、幹三郎の最後のお話の一言でございました。最近はその辛抱を遊びの心で受けております、まぁ何と素晴らしい言葉だろう、今日その事を聞いて頂いたので、どうぞ辛抱を遊びの心で、あとは嬉しと思う心で受けられる稽古、それが事は苦しい事は苦しい、痛い事は痛い成程そうでしょうけれどもね、それが有り難いと嬉しと頂けれる手立てがあるんです。稽古によって。
 そすと一生が例えばなら修行であってもそれは嬉しい事ではないでしょうか。それによって私共がいよいよね、御霊の世界に入ってもね、それを持って行かれる事が出来るといわれるのですから、おのずとそうした一つの死生観と言った様なものを、ざっと知るとこを頂く事が出来時日々を本当に、喜びの日々であり嬉しみの世界に住まわせて頂く稽古を、いよいよ日々の稽古に、その日々の稽古をなさっておられるのはね。
 確かに最近その実が上がって見えてきたと言う、こりゃ私がこうやってお広前を御無礼するようになってこっち、急にそう言う感じが致します。今日は日田の綾部さんのお宅で、今度あちらは大ご立派なご普請が出来るそうですから、今までのところを解かれるのです、それでお礼の祭りをしてくれと言う事で、今日幹三郎があちらへ参りましたが、お互い本当にあいよかけよでのおかげを頂きたいならあいよかけよね。
 例えば新築が出来というてお礼のお祭りをする事も有り難いけれども、今まで長年住み慣れた来たこのお家のおかげでと、それを取り払う時お礼のお祭り、まぁ何と言う行き届いたおかげじゃろうかと思うて。今日は幹三郎の話を聞かして頂いて、まお礼を申し上げた事でございますけれども、最近合楽では新築ブームだと言われております。もう御信者の中で沢山ご立派な御普請ができております。
 それにはやはりなら今迄の家を取り壊さしてもらう中にです、長年お世話になった心からのやはりお礼が言えて、又新築には新築にお礼が言えれてこそ、あいよかけよのおかげの世界というのが、はっきりして来るんじゃないでしょうか。行き届いた信心んと言われるのですから、私共はなにかまぁ言うならば、朝日を拝んでも夕日を拝む人はないと言われる様に、朝日を拝むなら夕日も又拝まして頂ける心の状態が、いよいよ開けて来るようなおかげを頂きたいですね。
   どうぞ。